横浜市で遺灰を売ること
今、献体が増えている
98%自国民の献体によって死して
医学に携わる若者の学びの糧てとなっている
近い過去には、
海外から死体を輸入というぐらいに
渇望していたのにである
その事情には、
核家族化による天涯孤独
経済的理由
などの動機が横たわる
医学への貢献が本来では、あるのだろうが・・・
それほどに死するにも供養にもお墓にも
お金と
自分の死を託せる人が必要なのである
そのお金も人も市井の人間には、
心もとない時代になってしまったのだ
献体を必要とする大学にも事情がある
一体につき管理、搬送、火葬に10万というお金
がかかるのだ
一体を二人で解剖するのが理想とされているが
四人で解剖するのが一般的なようである
地獄の沙汰も金次第という言葉が頭をよぎる
横浜市が遺灰を売る
いい悪いは、別として
廃棄するなら
苦しい財政の足しに
と考えざるおえない現状がようよう想像できる
人の遺灰も捨て置けないほどに
世の中が縮む
己の死さえも
お金に支配されているのである
観念にすぎないお金にである
遺灰を売って火葬場の整備補修にあてる
額面道理なら悪いとは、思えない
ただ死者への畏怖が
鎮魂の祈りが
人々の心から、生活から
遠のきは、しないか
その事が心命を・・・・・
日野皓正のビンタに思う
日野皓正は、世界的トランペッターだ
パホ-マ-なのだ
本番舞台の上
プロとして聴衆を
自らの手で不快にしては、ならない
日野皓正という築き上げた
ジャズマンとしての信用が泣く
教育者である必要はない
本物のプレ-ヤに子供達が触れる事に意味がある
子供の暴走を日野皓正という
存在を掛けて止めてやる必要は、ない
彼の守るべき一義は、プロ日野皓正自身だ
日野皓正のトランペットで感動したい聴衆だ
子供に優しすぎる
黙って、終わるまで観ていてやればいい
崩壊したら
客席に自分のスピリッツが子供たちに
伝わらなかったと
謝ればいい
それがプロのジャズマンの対応であり 見識だ
その後に、子供たちに声をかける必要は、ない
舞台を台無しにした子供達に
プロとして無言で怒ればいい
子供たちに思考が始まる
時をおいてプロのジャズマンの慈悲で
演奏を練習室で聞いてやればすむ
人は、一人だ子供と言えど変わらない
だからこそ
未来があればこそ本物として
同じ感情の土俵に上がってやっては、いけない
自分の出した音の顛末は、本人が全て
背負うべきなのだ
その上にセッションが成り立つ
音がプレーヤーが自律している必要がある
聴衆を満足させられないプレーヤーの自己満足は、
音楽とは言わない音苦だ
それこそ暴力なのである
自律したプレーヤーが
自分以外のプレーヤーに
聴衆に何を差し出すのか
陶酔のそこに理性が宿るからこそ
感動をよぶ
音、人間の一挙手一投足、息吹すら
迫り来る
音楽が聞きたい
暴力で未来を甘やかしては、いけない
暴力で子供の思考を止めるべきではない
暴力で日野皓正の存在が音への尊敬が
歪むのは、許せない
一度も聞いたことの無い人々によって
小池都知事 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を送らない?
思うところは、ある
先の戦争の賠償要求にも、
昨今、加害側といえど理不尽を感じる
だからこそ
小池都知事には、
おくる必要がある
と私は、思う
日本国民は、
関東大震災から94年が過ぎようとも
関東大震災を知っている人間が
1人もいなくなろうと
追悼式がある限り追悼文を送り続け
差別による虐殺をした過去と向き合うと
主張し続けることこそ
理不尽な、韓国の主張を退ける
唯一の方法なのだ
諸外国に
韓国に対して謝るべきは、謝り
償うべきは、償っているという証になる
お金のかからない実績を積むことに意味がある
その事が、日本の主張が正しいという信用
につながる
関東大震災も先の戦争も
やがて加害者は、死に絶える
大多数の日本人は、生まれていない
そこに感情のねじれが生じる
被害者であり続けるデメリットを理解
せざる負えない日は、来る
その日のために
過去の過ちに対して相応しい向き合い方を
していると主張し続けることこそ
意味があるのである
それにしても、北朝鮮
日本は、
ミサイルを打ち込んではならぬ国になるのだ
抑止力としての武力がいる
アメリカに守られている錯覚から
覚める覚悟がいる
9条の元で対処することは、
中国、ロシア、韓国に対する上で
有効である事は、間違いない
その上で抑止力としての軍備がいる
自衛隊員に軍人に相応しい栄誉と補償がいる
戦後70数年
親方日の丸と考えずにいた
ツケがまわってきた
それでも、過去の過ちに対して
相応しい向き合い方を
し続けると主張する事は
日本の行動を支持する
各国の動機付の一助になるはずである
踏み出せぬ朝
花火 闇きりさけど 踏み出せぬ朝
私の中学時代の思いと、苦しかった我が子の
思いが重なる
ちょうど、この時期のことだった
土手を降りた田んぼのただ中が指定席だ
暗闇だ
土手の向こうで打ち上げられる花火
闇を振り仰ぐ
心の闇も切り開いてくれるがごとく
打ち上がる花火に見とれた
自分も学校も親も教師も何もかも変わる気がした
学校に踏み出す朝
全ては、真夏の夜の夢
夢は、覚め、自分さえも変わっていない
親の心の重さが伝わる
何も変わらぬ踏み出せぬ朝
そんな思い出も
私を、我が子をかたちづくる
いい経験とは、決して思えない
心あきらかなる人は、人を厭わない
この歳になってやっと理解出来た
あの経験が無ければ 繰り言がよぎる
実りある経験では消してないが
学校の大人の奢りは確かに見える
フィンランドのオランダの教育が目指す
自立、自律教育の意味が
身をもって解る
我が子を追い詰めずにすんだ
それぐらいのことでは、ある
世間体なんてきにしてたら
日本の教育から我が子を守りきれない
実感である
親として我が親を超えた自負は、ある