10歳の男の子の言葉

こうのとりのゆりかご という赤ちゃんポスト

が設置されて十年がたったというニュ-スに

出会った



十年前こうのとりのゆりかご

入れられた赤ちゃんが

10歳の少年となってインタビューを受けていた


その抑制のきいた語りくちに 心揺さぶられた

どれほど、この子は自分の生について考えたか

考え続けるか


親御さんがいかにこの子の

成長に心を砕かれているかインタビューでの

彼の自身の生い立ちとの向き合いかたに

しのばれる


これから、こうのとりのゆりかご

を使う産みの親に対して

大切にされていた、愛された写真を一緒に

入れておいてほしいという言葉に

胸をつかれる


彼は、将来子供に関わる仕事がしたいという

自分の生い立ちと一生向き合わざる負えないと

覚悟の上で 子供に寄り添いたいという

彼が、大人になってどう子供の心に寄り添うのか

見てみたい


子供を思いやりたいという彼の心に

こうのとりのゆりかごを、多くの賛否のなか

英断された人々に敬意を表する

育ててこられた親御さんに敬意を表する



愛情の正体は、相手を思いやる心だ

たくさんの思いやりを受けてはじめて

相手を思いやる心に至る

自分をも思いやる心に至る

そこに自己肯定感は、やどる



我が子をどれだけ思いやり洞察すれば

世代間連鎖を断ち切れるのか

我が子が親になる日を待つしかない

たぶん、この目で確かめることは、ない

究極の理性のいとなみだ

世界地図

外国に行くと、かならず

世界地図を買った

国によっては、ばか高かったり

見つけられない国もあった

その国の世界地図は、その国における

日本の立ち位置に反映されている

日本の世界地図のように

日本は真ん中にはない

こぼれんばかりの端っこに位置する場合が多い

よくもまあ、日の本の国などと言ったものだ

当たり前の事だが

新鮮な驚きがあった



旅には、出られない

もう、増えるこは、、ない

それでいいと思っている

親の離婚

子供への影響は、小さくない



絵本

パパは ジョニーって言うんだ

作 ボ- ・ R ホルムべルイ

エヴァエリクソン

訳 ひしきあきらこ



スウェーデンの絵本だ

個人主義であり、男女格差が少ない国の絵本だ

心を守るために夢の中の住人でいて欲しい

小学 1 、 2 、3年生に読見聞かせた

絵本の中のこの子のように

あなたは、確かに愛されてる

と言ってやりたかった


それぞれの事情を抱えて

それぞれの思いを抱えて

一生懸命生きている


人間て、いとしい生き物だと

人生のはじめの一歩は、軽やかに踏み出させて

やりたかった


本当を知りながらも尚



親が片方の親を憎むとき

子供の苦しみは、尋常ではない

勉強どころの騒ぎじゃない

頼るべき親が憎んでる もう一方の親に似ている

自分を見つけてしまう

母親を殴っている親の中に

自分を見っけてしまう

その状況で自己肯定感が宿るはずもない

学ばなければ世代間連鎖だ

ここは、スウェーデンではない

合理的思考には、遠い日本なのだ

スウェーデンを目指せとは、言っていない

考え創造する必要がある

道徳では、足りない

世代間連鎖を断ち切るために哲学がいる


この絵本を読む時、

特に

感情移入は、いらない

読み手の自己満足に終わってしまうのだ



理性とは、

その事、物、人に対して

それにふさわしい向き合い方は、

何かと考える事だ


回り道をすれば、目的に到達出来ると解ったら

欲望や衝動や感情に惑わされず目的を達成する

力だ


大人は、理性を学ばなければ

子供が子供でいられない

才能あふれる子供への賞賛も必要であろうが

本当に大切なのは、市井の子供の幸せだ

市井の子供の幸せこそ

世の中の安寧につながる

感想文

我が子の六年生の時の感想文だ

信じられないが本人覚えていない

どうでもいいとのことなので

母親である私の戒めのために書きおく




青い鳥 を読んで


この本は、くちぶえ番長 と きみの友だち

を書いた重松清さんの本です

今までに三冊読みました

私は、この人の本が好きです


青い鳥 は、三時間ぐらいで一気に読みました

重松さんは、ヒ-ロ-を書いたそうだ

主人公の村内先生は、

中学校の非常勤講師で国語の先生です

なのにすごくどもってしまいます

背の低い、頭のうすい、五十才位のおじさんだ

ちっともかっこ良くないが

私もヒ-ロ-だと思いました


色々な苦しみを抱えこんだ生徒の心を

すごく良く見つめている、わかっている

村内先生に話をすると

心の裏側にあることまでも一生懸命

聞いてくれるのに

村内先生は、どもってしまうから

本当に大切なことしか話さない

その子の心をわかっていればこそ、

その子にとって

本当に大切なことが話せるのだと思った

大切な話は、まるでまっ暗闇の心に小さな光の

入る穴を開けたみたいに希望の光を生徒達に見せる

それを生徒自身の力で少しづつ広げていく


母は、私の話を最後まで聞かずに答えを出す

私は、答えでは、なく、小さな光が欲しいのだ

そうでなければ母の考えが私の考えになってしまう

私は、小さな穴を自分の力で広げたい

母と違う考えにたどり着くかもしれない

母は、すぐ 私の問題ではない と言う

なら小さな光の穴のような大事なところだけ

助けてほしい


大人は、子供の話の真実を聞かないのに

言うことを聞かない となげく

子供は、弱いんだ

一方的に押し付けられたらつぶれてしまうと

思う時がある


私は、嘘をつくことがある

村内先生は、

嘘をつくのは、その子が一人ぼっちになりたく

ないからです

嘘をつかないとひとりぼっちになっちゃう子が

嘘をつくんです

嘘は、悪いことじゃなくてさみしいことなんですよ

と言う

だから村内先生は、ひとりぼっちの心によりそう

どうしろこうしろとは、言わない

本当に大切な小さな光を心にともして

まにあってよかた

と言う、やっぱりヒ-ロ-だと思う


どこに住んでいるかも、家族のことも村内先生の

ことは、何も書いていない なぞだ

カッコ悪くて、どもってしまう国語の先生が

子供だけのために、いっしょうけんめいそこにいる

この本には、今の私の息苦しさに

にているところがある


読めない漢字があった

ちょっと重いけど

もっと本を読んでもいいかなと思いました





自筆じゃないと、確実に

伝わらない息吹がある、リズムがある

思い知った

切手値上がりしたけど大切な人には、

手紙を書こうと思う



我が子に育てられている

猿はサル

山に一番食べ物のない時期は、夏なのである



山を背負っている、拙宅には、

夏、人間には、都合の悪い

凶暴な野ザルがやってくる

去年は、百合の蕾を根刮ぎ召し上がって

さっていった

家という檻の中でじだんだを踏んだ



同じ猿なのに

なんと、動物園のサル山のお猿さんの品のいい

ことか

まさに、飼い慣らされているといった趣だ


今年は、文明の力を用意して

野ザルさまのお越しを待ち兼ねている

野ザル撃退用花火なるものを

我が子がプレゼントしてくれたのだ

百合の蕾を死守するのだ


空腹だと可愛そうだから、おにぎりでも

置いておこうかと言ったら

我が子に、

偽善者め、野生に失礼だと言われた

一言もございません ごもっとも



花火使おっかな、使うのよそおかな


その前に、都合により百合、植えっばなしなのだ

蕾付けないかもしれない


人まね小猿の絵本好きだったのに

夢と消えた 野生は、厳しいのだ

空腹

貧困、見て見ないふりをすれば

子供の空腹を、大人は、見過ごせる

子供は、無力だ

自分で何とかすれば開ける道を確保してやりたい


お年寄りがゴミ出しで困っているとよく聞く

ゴミ出しを手伝う事で、空腹を満たすすべは、

創造出来ないか


どうにかすれば自分で空腹を満たせる可能性は、

生きる希望につながる

人と関わる事で

未来が具体的に開けるかもしれない



藤原和博氏の地域本部を私は、支持する

PTAでは、足りない

親子さんの中には、外国の方で

字が読めない、書けない、話すのも、カタコト

という場合が

クラスに一人二人いる場合も珍しくない

今までのシステムには、無理がある


地域本部なら

子供が自分の手で

空腹を満たすためのお手伝いを創造出来るかも

しれない

貧富の差がより顕著になった今

空腹で万引をする心の劣化を思えば

子供にふさわしい、働く手立てを考える必要がある


空腹のあまり万引をせざるおえない状況に

追い込んでおいて責めるのは、理不尽にすぎる


色々なセ-フティ-ネットが必要だ

それを豊かさという

憲法を改正するために必要なこと

私ですら、自衛隊のあり方をこのままでいいとは、

思わない

この有事に及んで尚更だ

戦時下に丸腰同然で送り出すのは、

棄民に等しい

それでも、どうしても憲法改正に疑念を抱くのは、

先の敗戦の自国の総括ができてない事だ

戦後七十年何をしていたのか

悔やまれる

それゆえか

北朝鮮の脅威もアメリカ、中国、ソ連

動向を論じても

すっぽ抜ける感が否めない

敗戦の総括という土台が無いのだ

憲法裁判所さえない

創造的な自国の意思すら見つけ出せない



土台が足りない

日本の昭和史を学問として

小学生に語ると国家が覚悟した時

脆弱な足元に土台が築かれる

理想である


昭和史を学校で学んでいない子供がすでに

五十路を超えた

まさに、それが、私である